【新卒採用インタビュー】STORY1:未来の当たり前を創り出す、グリーのものづくり

“アイデアが形になり、人は初めてその価値に気付く”

「今日、アップルは携帯電話を再定義する」。10年前にスティーブ・ジョブス氏がそう話してiPhoneを発表したとき、ボタンが一つしかない使いにくそうな端末が世界を席巻すると想像できた人が、どれだけいただろうか。新しい携帯電話となれば、パカパカさせる二つ折りか、PCのようなキーボードを搭載したスライド式か、いやいや原点回帰してストレート端末がいいのではないか。そんな話で盛り上がっていた時代だ。

100年前、アメリカに自動車文化を根付かせたヘンリー・フォード氏は、「もし顧客に望むものを聞いていたら、彼らは『速い馬が欲しい』と答えていただろう」と語ったとされる。世界を変える新しいアイデアは、形になって初めて価値あるものと認められ、イノベーションと呼ばれるようになるのだ。それは工業製品に限った話ではなく、Yahoo!やGoogle、Facebookと言ったインターネットサービスでも同じことが言える。そしてグリーもまた、アイデアを形にし、人々に新しいインターネットの価値を提示した企業の一つである。

2000年代前半、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は、日本で流行らない」と語られることも少なくなかった。なぜなら、当時の日本のインターネットは、「2ちゃんねる」に代表される匿名のコミュニケーションを中心に発展していたからだ。しかしアメリカでは「フレンドスター」と呼ばれるSNSが約半年で100万人以上の会員を獲得し、その勢いは日本でもニュースになるほどだった。

「流行るには理由があるはずだ。その理由が知りたい」。そう考え、自ら「フレンドスター」を使い始めたのが、若き日の田中良和氏だった。1人で使ってみても何が面白いのかよくわからなかったが、友達を誘って使ってみるとすぐに面白さが理解できた。「ソーシャル・ネットワーキング・サービスには、人が求める普遍的な価値がある。これは国境を越えて流行るはずだ。日本でも面白いサービスがつくれる」と感じた。しかし感覚ではわかっていても、存在しないものの収益モデルを人に説明したり、市場規模を予測したりすることは難しい。当時はブログですら儲かるビジネスかどうかわからないと言われていた時代。ビジネスとして成立するかどうかわからないものを楽天のサービスとして作るのは難しいと判断した田中氏は、個人でやるしかないと独学しながら取り組むことを決意する。。田中氏は当時、会社員としてフルタイムで働いていたため、平日の深夜と休日を使ってただひたすらにサービスづくりをする生活が始まった。

「ほとんどの人は、つくりたいものがあっても実際につくることはない。でも本当にものづくりがしたいなら、つくらずにはいられないはずだ」(田中氏)

そして2004年2月、後にモバイルインターネットにイノベーションを起こすこととなるサービスの原型が1人の若者によって生み出された。それが、SNS「GREE」である。

“この時、グリーのものづくり文化が生まれた”

PC向けのサービスとして始まったGREEは田中氏の予想を超える勢いでユーザー数を伸ばし、日本でもSNSが受け入れられることを証明した。しかし、当時のGREEはあくまで田中氏の趣味。機能開発やサーバーの保守だけでなく、お問い合わせ対応まで一人で対応していたが、拡大するサービスを前に限界を感じていた。「どんなに良いサービスでも、安定して提供し続けることができなければ価値があるとは言えない。もっと多くの人に、素晴らしいサービスを提供し続けたい」。そう考えた田中氏は起業を決意し、2004年12月にグリー株式会社が誕生した。

そして、田中氏のビジョンに共感した仲間が集まり始める。4人目の正社員、かつ新卒第一期生として参加し、創業時からグリーのものづくりを見続けてきた荒木英士氏もその1人だ。

「私が入社した当時はまだ日本のSNS市場が立ち上がりかけているところでしたが、海外の事例を見れば、『将来的に大きく伸びる』というのは確信できました。そうは言っても入社を決断するのにはものすごく悩みました。でも、田中さんの純粋なネットサービスへの情熱に共感する部分が多くありましたし、田中さんの会社で創業メンバーになれるということへの期待感もありました。最後は『グリーみたいな場所でインターネットサービスをつくりたい』という自分の気持ちに従って、素直に行動しました」(荒木氏)

だが、GREEは出だしこそ良かったものの、すぐに競合サービスの後塵を拝す形になり、伸び悩む日々が続いていた。そして、1つの決断がその閉塞感を打ち破る。それは、PCからモバイルへの事業転換だった。今でこそ「モバイルファースト」など当たり前すぎて標語にもならないが、当時のインターネットサービスはPCから利用するのが主流の時代。誰もが当たり前のようにモバイル端末を持ち、その小さな画面であらゆるインターネットサービスを利用する世界は、想像することも難しい夢物語だった。

「田中さんが『これからはモバイルでいく』と宣言したとき、社内では多くの反対意見が出ました。当時はモバイルサービスと言えば『着メロ』や『占い』といった女子高生向けというイメージが強く、『ケータイサービスなんかつくるためにこの会社に入ったんじゃない!』と言う社員もいたほどでした。私もインターネットはPCで利用していてモバイルで利用することはなかったのですが、統計データや限定的に提供していたモバイル版GREEの手応え、また実際に女子高生や女子大生にグループインタビューを繰り返すなどしてユーザーイメージを掴んでいくことで、日に日に、『これはいけそうだ』と思うようになっていきました」(荒木氏)

田中氏は、「将来はインターネットと言えばモバイルのことを指すようになる」という強い信念のもと、会社の全リソースをモバイルに振り切るという大きな決断を下した。結果として、その決断は正しかった。荒木氏は、「今も受け継がれる『未来の当たり前になっているものを創り出す』というグリーのものづくり文化は、このときに生まれたような気がします」と語る。

モバイルにシフトしたグリーは2007年に世界初のモバイルソーシャルゲーム『釣り★スタ』をリリースすると、立て続けに『踊り子クリノッペ』『探検ドリランド』といったヒット作をリリースし、翌年には上場を果たす。時価総額は1000億円を超え、東証マザーズの1位に躍り出た。その快進撃は世界を驚かせるほどで、ハーバード大学ビジネススクールでもケーススタディーとして取り上げられている。(GREE, Inc. - Case - Harvard Business School)

「最初の頃のモバイルゲーム開発は少人数で企画も開発も全部やるという感じだったので、『釣り★スタ』のリリース1週間くらい前は僕も駆り出されて、遅くまでプログラミングしては帰りに天下一品でラーメンを食べて帰るという生活でした。そこから先は絶好調な時代で、どんどん新しいプロダクトをつくりました。もちろんうまくいくことばかりではなかったのですが、伸びる時期の手応えや勢いがあって、みんなで一喜一憂しながら、ものづくりに没頭できたのは良かったなと思います」(荒木氏)

“未来は待つものではなく、自分でつくるもの”

PCからフィーチャーフォン、そしてスマートフォンへ。「未来は現在の延長線上で続いていくのではないか」という考え方は、もはや過去のものになってしまった。一つの革新的なプロダクトが一瞬で人々の生活を変えてしまう時代になったからだ。私たちがいま当たり前に使っているスマートフォンも、いずれ博物館に展示される日が来るだろう。その時、私たちはどんなデバイスを使って、どんなコミュニケーションをして、どんな遊び方をしているのか。モバイルシフト、スマホシフトの荒波の中で戦ってきた荒木氏だからこそ、当たり前になった世界に危機感を持ち、未来を模索していた。

「発明家レイ・カーツワイルが書いた『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』という本を読んでいたとき、私が考えていた20年後の未来とつながる線が見えました。本自体はシンギュラリティー(技術的特異点)について書かれたもので、AI、ゲノム、ロボット、ナノテクなど広範な技術分野を掘り下げながらテクノロジーの未来を描き出しています。そこに書かれた未来予想には共感するものがあって、いずれ脳に回線を直結して神経からクラウドに直接アクセスできるようになれば物理的な距離の壁は無くなり、相手がどこにいようと一緒に会話したり食事したりできるような世界が来ると確信しました。その未来に繋がる現代の技術は何かと考えたときに、『VR』(Virtual Reality)がまさに目の前にあると思ったんです」(荒木氏)

2016年は「VR元年」と呼ばれ、次世代のプラットフォーム候補として注目を集めた。VRは、ゲームだけでなく、スポーツやエンターテインメント、医療といった多岐にわたる分野への応用が見込まれ、2020年には16兆円規模の市場になると予測されている。しかし、荒木氏が社内でVR領域への取り組みを提案したのは2015年始めのこと。社内には懐疑的に見る社員も少なくなかった。

「スマートフォンゲームに注力すべき大事なときに、VRに取り組む必要があるのかという意見もありました。しかし、プラットフォームが変わるタイミングは、ビジネスモデルからものづくりの方法まで大変革が起こります。どういうつくり方をすればいいのか。どういうビジネスが想定されるのか。グリーとしては、未来をただ待つのではなく、自分たちで未来をつくっていくことが重要なのです。そこでこっそり2人チームを組成して、VRコンテンツのプロトタイピングを水面下で始めたのです。」

モバイルへシフトした時もそうだったが、グリーというのは決断してからのアクションが異様に早い。何もないところから調査、研究開発、そしてデモプロダクトをつくりあげると、その年の東京ゲームショウへ出展し、グリーならではの内容に多くの注目を集めた。想定以上だった評価をもとにVR専門の開発部隊「GREE VR Studio」を設立すると、今度はGear VR向けストアへのコンテンツ配信、アドアーズと業務提携して「VR PARK TOKYO」向けコンテンツを共同開発するなど、その勢いは増すばかりだ。当初からVR事業の立ち上げに携わり、荒木氏と行動を共にしてきたプロデューサー兼エンジニアの渡邊匡志氏はこう話す。


(画像左)荒木 英士/2005年4人目の正社員として入社。グリー株式会社 取締役執行役員に就任。(画像右)渡邊 匡志/2012年入社。GREE VR Studioプロデューサー。

「市場でリーダーシップを獲得していくためには、スピード感はとても重要です。グリーのVRコンテンツの最初のリリースは、東京ゲームショー2015の『サラと毒蛇の王冠』。グリーが提供するVRとして何が適切なのか、という観点からゼロベースで企画を練り、プロトタイプをいくつも作りました。老若男女問わず、できるだけ多くの人にプレイしてもらうために、マス向けでマルチプレイという縛りの中で、例えば、釣り☆スタをVR化して多人数で遊べるようにしたプロトタイプやKinectを使ったマルチプレイシューティングなどを1週間くらいで作ってみたり、テーマパークやアミューズメントで受け入れられているコンテンツをひたすら体験しました。そのプロセスを経てVR未経験者でも楽しめる複雑な操作を要求しないライドアトラクションの企画に絞っています。ライドアトラクションというキャッチーなキーワードと仮想空間だからこそ実現できるアドベンチャーな世界観、その世界の主人公達になりきり、謎を解いて脱出するというカジュアルなインタラクティブ性が決め手になりました。制作期間は3か月で、グラフィックも、音楽も、エフェクトも、全部社内で新しくつくりました。その頃はVRデバイスが世の中に出回っておらず、開発にかなり苦労しました。
東京ゲームショー2015では、最長で120分待ちを記録するなど、グリーのブースは大盛況。そして、目の前でお客様がVRコンテンツを楽しむ姿を見て、初めて分かったことも多いと渡邊氏は続ける。

「マス向けの世界観、快適にプレイしていただくためのVR酔い対策、VR空間上でコミュニケーションができるSocial VRなど、多くの人にプレイしてもらうために工夫を凝らした部分は成功しましたが、反省点もたくさんありました。VRはデバイスを装着するまでの敷居が高く、オペレーターのコストが掛かります。安全面への配慮も必要で、機器によってはセンサーやバッテリーなどを考慮した運営が必要です。できるだけ多くの人にプレイしていただくためには、限られた時間と場所の中で体験人数を増やせる仕組みが必要です。課題は多くありますが、デバイスも進化していますし、VRのデバイスに拘らず、タッチパネルやモーショントラッカー、ARグラスなどを利用した非VRプレイヤーと一緒に遊べるコンテンツも考えられるので、これまでの知見は蓄積しつつ、新しいことに挑戦し、学び続けるポーズは変わらないです。」

VRは明るい未来、豊かな社会を導く起爆剤となる可能性を秘めているが、人々の生活に密着し、多くの人に使ってもらうようになればなるほど責任は大きくなる。グリーは何度もパラダイムシフトを経験してきたからこそ、そのことを理解している。

「グリーは、ただVRコンテンツをつくっていくのではなく、VR市場の健全な発展にも貢献したいと考えています。素晴らしい技術として社会に受け入れてもらわなければいけません。技術的に面白いことに挑戦しているというだけでは、自己満足で終わってしまいます」(荒木氏)

荒木氏は2016年5月、国内外で活躍するVRのキーパーソンを一堂に会した日本最大のVRイベント「Japan VR Summit」を開催し、最大500人収容の会場は満員御礼となった。まだ市場が確立されていない未知の技術に対して、世界が一つになって取り組むというのは非常に珍しい。その中心にグリーがいることは、グリーのものづくりに対する姿勢を端的に表していると言えるだろう。グリーのものづくりとは、未来の当たり前をつくることなのだ。「インターネットを通じて、世界をより良くする。」そのミッションは、創業から変わることなく息づいている。

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